左行秀 (花押)
 嘉永六年二月日
     足達正達佩之


  最上作



新々刀(1853年)
公財)日本美術刀剣保存協会 
  特別保存刀剣鑑定書

(附) 青貝微塵塗打刀拵






長さ74.5cm  反り2.0cm 目釘穴1個
元幅3.1cm弱  先幅2.1cm 重ね0.75cm

 左行秀は豊永久兵衛と云い、自ら筑前左文字の末孫と称し、江戸に出て清水久義の門に学び出藍の誉れが高い。 弘化三年、土佐山内家の藩工となり土佐に移り、更に文久二年には江戸砂村の土佐藩邸に移った。 維新後は再び土佐に帰り、 明治十八年七十四才で歿した。その作風は大方井上真改に私淑したと思われるような、匂の極めて深い直刃に沸足を交じえたものであるが、中にはこの刀の如くのたれに大互の目交じりの出来もある。 同作中の優品で、花押を添えているのも面白い。 なおこの刀には青貝微塵打刀拵が附属している。 (重要刀剣等図譜より抜粋)

 形状、鎬造、三ッ棟、身巾広く、重ね厚く、反りやや深くつき、大鋒。 鍛(きたえ)、柾目肌つみ、地沸つく。 刃文、のたれに大互の目交じり、足入り、匂い深く小沸よくつき、砂流しかかり飛焼交じる。 帽子、のたれ込んで表は小丸、裏は 大丸。 茎(なかご)、生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、化粧鑢つく、目釘孔一。 佩表、目釘孔の下やや棟寄りに太竪大振の三字銘と花押があり、裏は目釘孔にかけて同様に年紀と所持者銘がある。  

 左行秀は文化十年筑前国上座郡朝倉星丸の里に生れ、自ら筑前の名工左文字の三十九代目と称し、その銘に左の字を刻みました。 天保初年に出府し、細川正義門の清水久義に学び、弘化三年行秀34歳の時に土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐へ下り、万延・文久頃に江戸にもどり、深川亀高新田にあった土佐藩下屋敷に居を構え、安政二年十月には晴れて土佐藩工に任ぜられる。 慶応三年には深川土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった板垣退助との関係悪化により土佐に戻る。 これ以降「東虎」と銘する。 明治三年には槌を置き、晩年は横浜で暮らし、明治二十年七十五歳で没しました。 
 本作は嘉永六年行秀41歳の作。 34歳の時に土佐藩の目に留まり、将来の藩工として迎え入れられ、42歳で藩工に任じられる。 この約十年が行秀の刀鍛冶としての正念場であり、心血を注ぎ、切磋琢磨した時期と思われます。 現に重要刀剣指定品中嘉永年紀の作は全体の35%、安政期を含めると全体の50%になり、この時期に行秀の傑作が集中しています。 行秀の最高傑作とも評される国指定重要美術品の一口も本作と同じ嘉永六年二月日の年紀があり、この頃の充実ぶりは想像に難くありません。 本作もその予想を裏切らない出色の出来映えを示しており、放胆で迫力のある豪壮な一口です。 同工には大変珍しく花押添えている。これは嘉永五年から嘉永六年の僅かな期間に数振りだけ見られ、資料的にも貴重なものです。