藤原朝臣肥前守鎮忠作
  慶長九年二月日






新刀(1604年 419年前)
公財)日本美術刀剣保存協会  
   特別保存刀剣鑑定書






長さ70.9cm  反り2.0cm弱 目釘穴2個
元幅3.3cm強  先幅2.3cm 重ね0.75cm

 鎮忠(しげただ)は豊後高田の人で、兄鎮政と共に肥前に移り住み、さらには伊勢津藩の藩主藤堂高虎の招聘に応じて伊賀の名張に移住し、彼の地の刀工集団紀州石堂派に学び、華やかな丁子乱れを得意としたところから「伊賀石堂」または「名張高田」と呼ばれています。 戦国時代の質実剛健とした作風から一文字を彷彿とさせる華やかな丁子乱れと幅広い作風をこなす高田派きっての巧者です。

 本作は慶長九年の制作年紀が刻まれており、藤堂家の求めに応じ名張に移住したのが慶長十三年以降の為、豊後高田での作と思われます。

 姿、鎬造、庵棟、庵低く、身幅広く、先にいっても身幅さほど落ちず、棟重ねは低めながらも鎬筋はやや高めに張り、腰元に踏張りごころがあり、反りやや深めに、中鋒大きく延びる。 表裏に棒樋。 鍛え、板目に流れごころ交じり、よく練れ、地斑調の変り鉄交えて黒味を帯び、地沸厚くつき、鎬寄りに映り立つ。 刃文、広直刃を主調に小互の目・小丁子を交えて湾れ、小足・葉よく入り、刃縁に小沸よくつき、明るく冴え、僅かに湯走りかかる。 帽子、浅く乱れ込んで二重刃かかり、先焼き詰めごころに僅かに返る。 茎、生ぶ、先刃上がり栗尻、僅かに区送り、目釘穴二、表裏棟寄りにや大振りの銘がある。

 渡辺数馬と剣豪荒木又右衛門が数馬の仇である河井又五郎を伊賀の鍵屋の辻で見事打ち取ったのは日本三大仇討ちの一つ「鍵屋の辻の決闘」ですが、その荒木又右衛門が須智荒木神社に大願成就祈願のために奉納したのが鎮忠作の刀でした。
 関ケ原の戦いが慶長五年、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開府したのが慶長八年、本作は戦国の気風が色濃く残る慶長九年に制作され、荒木又右衛門などの剣豪に支持されたところをみるとよほど実践に即した刀と見え、稀代の試斬家山田浅右衛門も紀州家に伝わる鎮忠の刀を見て称揚する文言を書き残しています。
 身幅広く、切先の延びた豪壮な姿に鎬を落して鋭利さを加味し、硬軟の鉄を交ぜて鍛え上げたかのような地金に物切れするかに見える冴えた焼き刃。 まさに戦国乱世の戦い抜くために作られたかのような剛刀です。 
 いかにも武人好みな渋い薩摩拵が付属しており、華美を排した質実さのなかにも金無垢目貫を配して抑制のきいた高級感を醸し出している。 江戸時代に制作された黒呂色鞘は経年変化のため上層の黒漆が程よく透けて赤茶けた色になり、良い風情を見せています。