筑前守信秀
  慶應元年八月日


  上々作




新々刀(1865年)
公財)日本美術刀剣保存協会 
  特別保存刀剣鑑定書







長さ66.7cm  反り1.2cm 目釘穴1個
元幅3.25cm  先幅2.5cm 重ね0.65cm

 栗原信秀は文化十二年、越後国西鎌原郡月潟村に生まれました。文政十二年、14歳の時に京に上がり、鏡師となるが、嘉永三年江戸に出て、清磨門に入り刀鍛冶となります。 現存する信秀の作で最も古い物は嘉永五年紀の作になり、師の清磨が嘉永七年に亡くなっていることからも信秀が師事していた期間は短いと思われます。 嘉永六年には黒船来航と時を同じくして相模国浦賀にて作刀。(浦賀打ち) 慶應元年には筑前守を受領し、慶應三年頃まで大阪に滞在し作刀する。 後に江戸にもどり、さらに明治七年には郷里の越後に帰る。 明治十三年一月二十五日、東京本郷元町の養子信親宅に於いて六十六歳で永眠する。 彼の技量は清磨一門中最も卓越しており、師清磨に迫る出来映えのものがあり、また幕末屈指の刀身彫刻の名手としても名高い。

 姿、鎬造、庵棟、身幅広く、元先の幅差目立たず、平肉あまりつかず、反り浅く、大切先ふくら枯れごころとなる。 鍛え、板目、肌立ちごころに杢目交じり、処々流れ、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入る。 刃文、互の目乱れに角がかった刃・頭の丸い互の目・尖りがかった互の目・丁子風の刃など交じり、足長く盛んに入り、葉を交え、匂勝ちに小沸よくつき、砂流しかかり、金筋長く入り、匂口明るく冴える。 帽子、乱れ込み、表は小丸、裏は突き上げ気味に尖って返る。 彫物、表棒樋に珠追い龍、裏棒樋を掻き通す。 茎、生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘穴一、差し表目釘穴少し上から棟寄りに細鏨の五字銘、裏目釘穴より「慶」の字を一字上げて中央に年紀を切る。

 本作は南北朝期の太刀に範を取った豪壮な体配に華麗な乱れ刃を焼き、地刃の働きも一段と目立ち、沸づきの様態にも変化がみられるなど、常にも増して迫力のある作風に仕上げられている。 刃取りには様々な刃を交えてさかんな動きが看て取れ、長く金筋が入り、地刃が明るく冴え渡っている様は、正に師清麿を彷彿とさせ、流石です。 「彫同作」の添え銘は無いが、龍の彫が卓越しており、その彫りの一部が刃中にまで及んでいることから、焼き入れ前に彫られた自身彫であることが分かります。 重要刀剣指定品に同じ寸法、同じ作柄、同じ彫り、同じ年紀の作があり、同時に制作されたいわゆる陰打ちかもしれません。 
 信秀の本領が遺憾なく発揮指された一口で、師風をよく受け継いでおり、優れた出来映えをみせています。
 本作制作時に作られた打刀拵が付属しています。